ライター : 中島茂信

『イタリア パスタの研究』編集部主催の料理講習会を渋谷で開催

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『イタリア パスタの研究』の創刊号に掲載された編集部主催の料理講習会の風景。コック帽がルイジ・ゴーニ氏/出典『イタリア パスタの研究 創刊号』
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『月刊料理雑誌イタリア パスタの研究』の創刊号には、同編集部が主催した料理講習会の様子を写したモノクロ写真が1枚掲載されている。その写真を見る限り、参加者の大半が女性だった。しかも着物姿の女性が多いことに驚かされる。1966(昭和41)年当時、着物は普段着だったのか、それともよそ行きだったのだろうか。

Photo by イタリア パスタの研究編集部

イタリア パスタの研究編集部の招へいで来日したルイジ・ゴーニ氏 /出典『イタリア パスタの研究 創刊号』
講師のルイジ・ゴーニ氏が作ったパスタの試食がおこなわれたあと、質疑応答の時間が設けられていた。参加者の質問とゴーニ氏の解答が、数号にわたり同誌に掲載されている。

令和の時代ならまず考えられない質問を、女性陣はゴーニ氏に放った。パスタが国民食になる半世紀前、異国の食べ物をどのように料理し食べていたのかを知るうえで、とても興味深い質問がよせられている。

どのような質問だったのか、いくつか紹介する。

「スパゲッティをゆでる際、塩だけでなく、少量の油をいれるといいと本でよんだが、どんな利点があるのか」という質問をした人がいる。今日であれば、間違っても油を入れた湯ではパスタをゆでないはずだ。当時、「油をいれてゆでる」と紹介していた本があったことがうかがえる質問だった。もちろん、ゴーニ氏は油を入れることを否定している。油を入れようものなら「スパゲッティの味を損なう」と答えている。

昭和40年代のパスタは、ゆでたら水にさらす必要があった

「マカロニやスパゲッティがゆで上がった際、水にさらしているのだが、それは必要なことなのか」という質問もあった。これもゴーニ氏は否定した。けれど、この頃の国産パスタは、ゆで上がったら水にさらす必要があったと伝えていたシェフがいる。帝国ホテルの村上信夫(むらかみ のぶお 故人)氏である。

村上氏は、1969(昭和44)年に第11代帝国ホテル総料理長に就任している。その7年前の1962(昭和37)年3月、「NHKきょうの料理」に出演。「洋風めん料理」というタイトルでニョッキやラヴィオリなどの作り方のほか、乾燥パスタを使った「ナポリ風のスパゲッティ」、「ボロネーズソース」、「マカロニサラダ」、「マカロニグラタン」などを紹介した。

「NHKきょうの料理」番組テキスト(昭和37年3・4月号)の「特集洋風めん料理」巻頭に、スパゲッティにソースをかけている村上氏の写真が掲載されている。村上氏というと口ひげをたくわえ、メガネをかけた恰幅のいい姿を記憶している方が多いと思う。帝国ホテルの厨房で撮ったと思われるその写真は、口ひげもメガネもかけていない、まだ40歳の若々しい村上氏をとらえている。
番組テキストに掲載されたレシピには、マカロニもスパゲッティも「ゆで上がったら冷水にとり、手早く水洗いをするようにして冷まし、めざる等にあげて水分を切る」と書かれている。付け加えて、「本場のイタリアではゆでてそのまま器に取って供している」とある。

ゆで上がったマカロニとスパゲッティを、なぜ冷水にとる必要があったのか。後年、そのことを尋ねられた村上氏は「当時の日本のスパゲッティはセモリナ粉はほとんど入っておらず、うどんと同じようなものだったので、ゆでたあと水にとって引き締めないと使えなかった」と答えている(河村明子著『テレビ料理人列伝』)。

村上氏が言う「うどんと同じようなものだった」とはどういう意味か。それを説明する前に、日本におけるパスタの歴史をふり返ることにする。

当初、国産パスタはうどん粉で作ったうどんだった

Photo by マ・マーマカロニ

初期の頃のマカロニの販売風景/出典『マ・マーマカロニ30年史』(マ・マーマカロニ発行)
この国ではじめて作られたパスタはショートパスタのマカロニで、明治なかば(大正時代の説も)のことだとされている。その後、1928(昭和3)年に兵庫県尼崎のメーカーが機械ではじめてショートパスタを生産したものの、まだ一般的な食材ではなかったようだ。

家庭で消費されるようになったのは、マ・マーマカロニとオーマイマカロニが国産マカロニの生産に着手した1955(昭和30)年以降。スパゲッティの生産をはじめたのは、マ・マーマカロニが1956(昭和31)年、オーマイマカロニが1957(昭和32)年である。

Photo by マ・マーマカロニ

初期の頃の、マ・マーマカロニの宣伝カー/出典『マ・マーマカロニ30年史』(マ・マーマカロニ発行)
マカロニもスパゲッティも当時の日本人からすれば、未知というよりも謎の食材だった。そのため両社とも盛んに啓蒙活動をおこなった。商品名をペイントした宣伝カーを走らせたり、デパートでPRを続けたりした。

マカロニのサンプルを配ったところ、そのままかじる者がいるかと思えば、「変わったローソクね」といわれる始末。「粉にすると頭痛によく効く薬だ」としたり顔で言う輩もいたという。

積極的に普及活動を展開したことで、マカロニもスパゲッティも徐々に浸透していった。
結論から先にいってしまえば、うどんのようなパスタが改善され、デュラムセモリナ粉100%のパスタが製造されるようになったのは1986(昭和61)年のことだ。では、それ以前の30年間はどうだったのか。マ・マーマカロニが発行した『マ・マーマカロニこの10年の歩み』(平成7年発行)にこのような記述がある。

「一般的にその(筆者注:デュラム小麦)使用率は、当社も含めて30%から50%にとどまっていた。その理由は、一つにはデュラム小麦の価格の問題がある」

輸入もののデュラムセモリナ粉が高くて使えなかったため、不足分をパン用の強力粉、すなわちうどん粉で代用し、ロングパスタやショートパスタを生産していたというのだ。パスタ・マシーンこそ導入していたものの、国産パスタはイタリア産とは似て非なるもの。ゆでると湯が白くにごったり、表面がべたつくのが、1986(昭和61)年以前の、国産パスタの特徴だった。

村上氏が指摘したように「うどんと同じようなものだった」がゆえに、「ゆで上がったら冷水にとる」のは、言わば当たり前だったのだ。

パスタの国イタリアが原料規制にのり出したのは意外と遅かった

では、なぜうどんのようなパスタから、デュラム小麦100%に切りかえたのか。

明治末期にはすでにイタリア産パスタが輸入されていたが、うどんのような食感が日本人の舌と味覚にあっていたことからイタリア産よりも国産パスタが好まれていた。ところが、若者を中心に、本格的なパスタのシェアが急速に高まり、「かつては硬すぎるという批判が多かったデュラム100%のパスタこそ、本当のパスタの味であるという確かな認識の台頭があった」(『マ・マーマカロニこの10年の歩み』)ため、1986(昭和61)年に国産メーカーの大半が、デュラム小麦100%のパスタに舵をきったのである。

パスタの故郷イタリアはどうか。昔から乾燥パスタはデュラムセモリナ粉と水で作らなければならないと法令で定められていた……、と言いたいところだが、この法令が施行されたのは1967(昭和42)年。むしろフランスのほうが、原料規制に着手するのが早かった。1934(昭和9)年に施行された法令で「乾燥パスタの製造には、硬質小麦のセモリナ粉の使用を義務づけ(中略)、世界で唯一のこの基準によって、フランス政府は先見の明を示した」と『パスタの歴史』(シルヴァーノ・セルヴェンティ著、清水由貴子訳)にある。

イタリアはフランスに遅れること30余年、硬質小麦の使用を義務づける「商用乾燥パスタの純度に関する法律(いわゆるパスタ法律)」(同書)を制定した。

雑誌の休刊後、西村氏はイタリアで料理講習会を実施

話を『月刊料理雑誌イタリア パスタの研究』に戻す。

同誌は12回発行され、1968(昭和43)年4月の総括篇を最後に休刊した。この総括篇の巻頭に「読者の声」というページがある。それを見ると東京外国語大学助教授やお茶の水女子大学教授、国立栄養研究所応用食品室長、全国学校栄養士協議会会長、イタリアンレストラン・マルゲリータ店主、イタリー亭常務などの名前と、それぞれの感想が掲載されている。

同誌は月刊料理雑誌とうたっていたが、価格表記がないことから書店売りをしていなかったと考えられる。明星リッチ(明星食品とイタリア・リッチ社の提携により設立されたパスタメーカー)の商品を扱っていた販売店やレストランに加え、大学や研究機関などに配布したPR誌だった可能性が高い。発行人だった西村暢夫(にしむら のぶお)氏も、「どこで配っていたものなのか記憶にない」としている。

同誌は日本には存在しなかったパスタという言葉を世に知らしめ、そのレシピを伝えたことで役目を終えた。
ところで。
先に国産の乾燥パスタはうどん粉で作られていたと書いたが、明星リッチの乾燥パスタはどうだったのか。
同誌の最終号となる総括篇の巻末に「明星リッチ株式会社の沿革」というページがある。そこには、「日本でただ一つの本格的スパゲッティ・マカロニの生産・販売が開始された」と記載されている。原材料をどこから入手したのか不明だが、デュラム小麦100%か、デュラム小麦を中心としたパスタを生産していたと考えられる。

Photo by macaroni

西村氏の近影
西村氏は、『月刊料理雑誌イタリア パスタの研究』を休刊した2年後の1969(昭和45)年、ローマ郊外でイタリア料理講習会を実施した。料理研究家や料理人、料理学校教師など計40数名がイタリアへわたり、ひと月の間イタリア人シェフから料理を学んだ。参加者のなかには、のちに「いのちのスープ」で知られるようになる料理研究家、辰巳芳子(たつみ よしこ)の姿もあった。

イタリア料理講習会に参加した人たちが、日本に本格的なイタリア料理を伝え広めていった。そのなかには日本初となるイタリア料理のレシピ本を出版した人もいる。イタリア料理講習会で学んだレシピを一冊の本にまとめたのだ。

次回につづく
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