ライター : 中島茂信

29歳のときはじめてイタリアへわたり、約1か月の滞在でイタキチに

Photo by 藤田修平

イタリア書籍の輸入販売をなりわいとする「文流」が、なぜレストランをはじめたのか。そのわけは、「リストランテ文流」を設立する11年前の1962(昭和37)年にさかのぼる。

29歳の西村暢夫(にしむら のぶお)氏は、東京外国語大学イタリア語学科卒業の「実力」がかわれ、明星食品の社長、奥井清澄(おくい きよずみ)氏の通訳としてはじめてイタリアへわたった。

即席ラーメンで知られる明星食品が、乾燥パスタを生産する機械を輸入するため、エミリア・ロマーニャ州のフェッラーラという街にあるパスタマシーン・メーカー、リッチ社へ行くことになった。その通訳を、奥井氏は西村氏にたのんだのである。

当時の西村氏のイタリア語が、「まったくつかいものにならない」ことはすぐにばれた。ミラノのホテルで観ていたテレビドラマを西村氏に通訳させたところ、デタラメなのが発覚。ドラマが、西村氏が翻訳した内容とまったくちがう方向に展開したのだ。

それでも首にならず約2週間の職務を遂行させてもらった。
リッチ社の社長、リチョット・リッチ氏は、奥井氏と西村氏にパスタマシーンが稼働する様子をみせてくれただけではなく、ふたりを地元のリストランテへ案内した。

「それが本格的なイタリア料理とのであいでした。いまでも強烈な印象がのこっているのはカピトーネ、ウナギ料理です。野球のバットぐらい太いウナギをぶつぎりにして煮込んだ、脂っこい料理でした」(西村氏)

イタリア滞在中、奥井氏は、「プロシュット エ メローネ」(生ハムとメロン)を毎日食べていた。胃をわるくしていたため、軽いものをたのんだというのだ。

「私も好きでよくたのみました。生ハムとメロンが口のなかで一体となり、甘くてさっぱりした味わいにイタリア人の才能と、センスの良さを感じました」(西村氏)

当時生ハムはまだ日本に輸入されておらず、奥井氏も西村氏もイタリアではじめて生ハムの味を知った。

イタリアでの食べ歩きでイタリア料理に開眼

奥井氏と別れたのち、西村氏はローマに留学していた学生時代の友人と合流。彼が運転するクルマで10日間、シチリアやカラブリア、プーリアを中心に南イタリアをまわった。さらにその後、西村氏はひとりで1週間かけてトリノやボローニャ、フィレンツェへ足をのばした。「はじめて日本人をみた」と、イタリア人に言われながら、パスタや生ハム、ラグーやフリットミストなど、素朴で質素だが、味わい深い土着のイタリア料理をたのしんだ。

この旅で西村氏がとったシチリアの風景写真と人物写真が7枚、誠文堂新光社が1964(昭和39)年に発行した『世界地理風俗大系第15巻イタリア ギリシア』に掲載されている。そのなかに、複数のシチリア人小学生を写した写真がある。お世辞にもこぎれいとはいえない服をきた小学生が、ファインダーをのぞく西村を純朴そうな眼でみつめている写真だ。

筆者は、西村氏がはじめてイタリアへ行った2年前の1960(昭和35)年に葛飾区でうまれた。当時の日本は貧しかったが、シチリアも日本にまけないぐらい貧しかった。西村氏もけっして贅沢な旅ができるような状況ではなかった。なぜなら、当時の海外渡航には外貨のもちだしに制限があったからだ。しかもまだカードがない時代だった。けれどはじめてのイタリアでの食べ歩きが、西村氏をイタリア料理とイタリアの食文化に開眼させた。

Photo by 中島茂信

29歳のときの、約1ヶ月にわたるイタリアの旅が、西村氏のその後の人生を決定づけただけでなく、西村氏をイタリア狂、すなわち「イタキチ」にさせたことはまちがいない。のちにリストランテ文流をはじめたのは、西村氏自身が、イタリアで味わったような本格的な料理を「毎日食べたかった」ことも大いにある。が、それ以上に、「イタリアの食文化をひろめたい」という強い想いが、飲食業は素人だった西村氏に、レストランを開業させたのだ。

ところが、リストランテ文流は8ヶ月間売上がたたず、書籍の稼ぎをレストランにつぎこんだおかげで、西村氏は文流の社員から文句を言われ続けた。黒字に転じたのは2年目から。

作家の丸谷才一氏(故人)が、『文藝春秋昭和49年9月号』にリストランテ文流の「海の幸のサラダ」を絶賛する文章を書いたのがきっかけだった。丸谷氏のおかげで大勢の人がおしよせる店になっていった。

丸谷氏が記したリストランテ文流の推薦文は、『食通知ったかぶり』(文春文庫)で読むことができる。

Photo by 藤田修平

奥田シェフとリストランテ文流のコラボ食事会で挨拶をする西村氏。左からリストランテ文流の遠藤栄シェフ、奥田政行シェフ、西村暢夫氏
リストランテ文流は、行列ができる店になっただけでなく、それどころか、「アルケッチァーノ」のオーナーシェフ奥田政行氏が言ったように「イタリア料理のパイオニア」になっていった。

次回へつづく
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