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奥田政行シェフとリストランテ文流のコラボ食事会
「リストランテ文流」というレストランが高田馬場(新宿区)にある。
2016(平成28)年4月、この店でコラボ食事会がひらかれた。「アルケッチァーノ 」(山形県鶴岡市)のオーナーシェフ奥田政行氏(昭和44年生まれ)と、リストランテ文流の6代目シェフ遠藤栄氏(昭和56年生まれ)との響宴だった。
2016(平成28)年4月、この店でコラボ食事会がひらかれた。「アルケッチァーノ 」(山形県鶴岡市)のオーナーシェフ奥田政行氏(昭和44年生まれ)と、リストランテ文流の6代目シェフ遠藤栄氏(昭和56年生まれ)との響宴だった。
奥田シェフと遠藤シェフが、前菜からデザートまでの計5品を「同じ素材で、同じ料理をつくる」というのが、このコラボ食事会のテーマだった。
ふたりは、ある段階まで同じ手順で調理する。ところが。
ふたりのレシピが異なるため、同じ料理とはいえ、まったくちがう料理ができあがった。4品目の「ボローニャ風ラザーニャ」も、そのひとつ。
ふたりは、ある段階まで同じ手順で調理する。ところが。
ふたりのレシピが異なるため、同じ料理とはいえ、まったくちがう料理ができあがった。4品目の「ボローニャ風ラザーニャ」も、そのひとつ。
遠藤シェフは、長年リストランテ文流で受け継がれてきた、ラザーニャとボロネーゼを使った古典的なイタリア料理を提供した。
一方、自身で習得してきたレシピを元に、一歩、あるいは数歩進化させたイタリア料理を披露したのが、奥田シェフ。バルサミコでもどした山形の庄内麩をラザーニャにみたて、ボロネーゼをかさねたボローニャ風ラザーニャを提案した。
奥田シェフの進化させたイタリア料理と、リストランテ文流につたわる古典的なイタリア料理。奥田シェフと遠藤シェフの料理は、イタリアとイタリアの食文化が大好きな参加者の眼と舌をたのしませてくれた。
両シェフによるコラボ食事会は2年間で計5回ひらかれた。参加者はもちろん、奥田シェフも遠藤シェフもおおいに刺激になった食事会だった。
奥田シェフの進化させたイタリア料理と、リストランテ文流につたわる古典的なイタリア料理。奥田シェフと遠藤シェフの料理は、イタリアとイタリアの食文化が大好きな参加者の眼と舌をたのしませてくれた。
両シェフによるコラボ食事会は2年間で計5回ひらかれた。参加者はもちろん、奥田シェフも遠藤シェフもおおいに刺激になった食事会だった。
リストランテ文流はイタリア料理のパイオニア
「昔からリストランテ文流の名前を雑誌で読んで知っていました。でも、まだ若かった自分には、この店は敷居が高くて近寄りがたい存在でした。なぜなら、リストランテ文流は、荒野をきりひらいてきた『イタリア料理のパイオニア』だから。コラボ食事会は、ボクが、リストランテ文流に提案し、実現した企画です」(奥田政行氏)
1973(昭和48)年7月に開業したリストランテ文流は、日本初のイタリアンではない。イタリアンがまだ珍しかった時代、すでに東京では、「アントニオ」(港区南青山)や「キャンティ」(港区麻布台)や「シシリア」(港区六本木)が人気をあつめていた。
では、なぜ奥田シェフは、リストランテ文流を「イタリア料理のパイオニア」といったのか。
この店は奥田氏のようなスターシェフがいるわけでもなければ、シェフの個性をきわだたせたスペシャリテを食べさせてくれるわけでもない。 むしろ、初代シェフ吉田勝昭(故人)がヴェネツィアでおぼえた「海の幸のオードブル」、「ペストジェノベーゼ リングイネ」、ローマっ子が愛してやまないパルミジャーノ・レッジャーノ・チーズを使った「ストラッチャテッラ」(スープ)など、イタリア各地で昔から食べられてきた、古典的なイタリア料理を得意としている。
奥田シェフがこの店を「イタリア料理のパイオニア」と指摘したのは、奥田シェフがいうように、「イタリア料理が未開の荒野だったこの国に、イタリア料理をひろめたからだ」と筆者は理解している。
リストランテ文流の歴史をふりかえりつつ、日本にイタリア料理とイタリアの食文化がひろまっていった歴史を紐解こうというのが、この連載の目的である。
1973(昭和48)年7月に開業したリストランテ文流は、日本初のイタリアンではない。イタリアンがまだ珍しかった時代、すでに東京では、「アントニオ」(港区南青山)や「キャンティ」(港区麻布台)や「シシリア」(港区六本木)が人気をあつめていた。
では、なぜ奥田シェフは、リストランテ文流を「イタリア料理のパイオニア」といったのか。
この店は奥田氏のようなスターシェフがいるわけでもなければ、シェフの個性をきわだたせたスペシャリテを食べさせてくれるわけでもない。 むしろ、初代シェフ吉田勝昭(故人)がヴェネツィアでおぼえた「海の幸のオードブル」、「ペストジェノベーゼ リングイネ」、ローマっ子が愛してやまないパルミジャーノ・レッジャーノ・チーズを使った「ストラッチャテッラ」(スープ)など、イタリア各地で昔から食べられてきた、古典的なイタリア料理を得意としている。
奥田シェフがこの店を「イタリア料理のパイオニア」と指摘したのは、奥田シェフがいうように、「イタリア料理が未開の荒野だったこの国に、イタリア料理をひろめたからだ」と筆者は理解している。
リストランテ文流の歴史をふりかえりつつ、日本にイタリア料理とイタリアの食文化がひろまっていった歴史を紐解こうというのが、この連載の目的である。
オープン当初はまったく客がこない店だった
リストランテ文流には、親子3代で通っている客も少なくない。何年も通いつづけている客のなかには、メニューにない料理をオーダーする人もいる。ところが。
「オープン当初は8か月間客がきませんでした」
創業者の西村暢夫氏(昭和8年生まれ)がそう言って苦笑いするぐらい、開業当初は、人にしられていない店だった。
「オープン当初は8か月間客がきませんでした」
創業者の西村暢夫氏(昭和8年生まれ)がそう言って苦笑いするぐらい、開業当初は、人にしられていない店だった。
客がはいらなかった理由はいくつか考えられる。「ケチャップでいためたナポリタンがイタリア料理だ」と信じられていた時代、多くの人にとって、この店のメニューはどれもなじみがなかった。いまでこそほとんどの人が食べたことがある「アーリオ・オリオ・ペペロンチーノ」も「イカ墨のパスタ」も「牛煮込みローマ風」も、受け入れてもらえなかった。
ナポリタンにせよミートソースにせよ、昭和の時代のスパゲッティは、サラリーマンが喫茶店や軽食屋でたのむ定番メニューだった。「スパゲッティは専門店で食べるものではない」と思われていたのかもしれない。
ナポリタンにせよミートソースにせよ、昭和の時代のスパゲッティは、サラリーマンが喫茶店や軽食屋でたのむ定番メニューだった。「スパゲッティは専門店で食べるものではない」と思われていたのかもしれない。
そしてもうひとつ。リストランテというイタリア語にも、なじみがなかった。
現在、イタリアンであれば、店名にリストランテをつけるのがあたりまえである。けれど、当時リストランテを名のる店は、まずなかった。
イタリア料理店の店名に、リストランテをつけたのは西村氏が最初だった。文流の名も、西村氏が考えた。
現在、イタリアンであれば、店名にリストランテをつけるのがあたりまえである。けれど、当時リストランテを名のる店は、まずなかった。
イタリア料理店の店名に、リストランテをつけたのは西村氏が最初だった。文流の名も、西村氏が考えた。
1973(昭和48)3月、西村氏は、イタリア書籍の輸入販売を仕事とする「文流」を起業した。「日本とイタリアの文化交流を担いたい」という想いから、「文流」と命名した。
高田馬場駅前にあるビルの地下1階に、事務所をかまえた。その4か月後、事務所を改装し、リストランテ文流をひらいた。
高田馬場駅前にあるビルの地下1階に、事務所をかまえた。その4か月後、事務所を改装し、リストランテ文流をひらいた。
西村氏は料理人でもなければ、ホール担当でもない。かといって、ただのイタリア書籍のインポーターでも社長でもない。西村氏がナニモノで、ナニをしてきたのか。それをさぐるのも、この連載の目的にかかげたいと思っている。
次回へつづく
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※掲載情報は記事制作時点のもので、現在の情報と異なる場合があります。
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