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カレー伝来の道~インドから英国、そして日本へ、その最大のポイントは小麦粉~
インド発祥の料理にして、今や日本の「国民食」と呼ばれるカレーライス。江戸時代末期、200年超にも及ぶ鎖国が終わり、欧米の文化が一気に押し寄せて来た頃に、カレーもイギリス船によってもたらされたというのが通説です。
そのイギリスにカレーが伝わったのは1772年。初代ベンガル総督のウォーレン・ヘイスティングが持ち帰ったとされています。彼は、複数のスパイスを混ぜた調味料(カレー粉の原点)とベンガル地方の主食であったインディカ米をイギリス本国に運び、それがさまざまな改良を経て欧風カレーの基となりました。
特筆すべき点は、欧風料理の定番シチューの料理法を真似て、小麦粉でとろみをつけたものが基本レシピとなったことです。この「カレー粉+小麦粉」という調理法は、インドのカレーには見られないもので、ここに日本でカレーが受け入れられた最大のポイントがあるのです。
そのイギリスにカレーが伝わったのは1772年。初代ベンガル総督のウォーレン・ヘイスティングが持ち帰ったとされています。彼は、複数のスパイスを混ぜた調味料(カレー粉の原点)とベンガル地方の主食であったインディカ米をイギリス本国に運び、それがさまざまな改良を経て欧風カレーの基となりました。
特筆すべき点は、欧風料理の定番シチューの料理法を真似て、小麦粉でとろみをつけたものが基本レシピとなったことです。この「カレー粉+小麦粉」という調理法は、インドのカレーには見られないもので、ここに日本でカレーが受け入れられた最大のポイントがあるのです。
カレーライスは日本初の“あんかけご飯”だった!
イギリスのB&C(クロス・アンド・ブラックウェル)社がカレー粉を商品化し、日本にもそのレシピとともに伝わりました。イギリスへはインディカ米が一緒に伝えらていましたが、幸い日本には古くからジャポニカ米のご飯がありました。イギリスで小麦粉が加わりとろみが付いたカレーが、日本のご飯にベストマッチしたのです。
江戸風俗研究家でエッセイストの故・杉浦日向子が興味深い説を残しています。カレーが明治から大正にかけて全国に普及した背景には、江戸時代に慣れ親しまれた2つの料理があったからとの分析です。
1つが、ご飯に汁物をぶっかけて食べる「ぶっかけ飯」。もう1つが、汁に小麦粉を混ぜとろみを付けて麺にかける「あんかけ麺」。この2つの料理の特長を合わせ持ったのが「カレーライス」で、日本初の“あんかけご飯”として当時の人々の好みにぴったりのニューフェイスと歓迎されたと指摘しています。※1
江戸風俗研究家でエッセイストの故・杉浦日向子が興味深い説を残しています。カレーが明治から大正にかけて全国に普及した背景には、江戸時代に慣れ親しまれた2つの料理があったからとの分析です。
1つが、ご飯に汁物をぶっかけて食べる「ぶっかけ飯」。もう1つが、汁に小麦粉を混ぜとろみを付けて麺にかける「あんかけ麺」。この2つの料理の特長を合わせ持ったのが「カレーライス」で、日本初の“あんかけご飯”として当時の人々の好みにぴったりのニューフェイスと歓迎されたと指摘しています。※1
日本初の国産カレー粉は大阪の薬問屋から誕生
日本の食文化にマッチしていたカレーですが、明治後半までの時代はカレー粉はもっぱら輸入品に頼るのみで、価格も高く、B&C社のカレー粉の模造品が横行するような状態でした。
そんななか、大阪で薬問屋を営んでいた今村弥兵衛は、漢方薬をしまってある蔵に入ったところ、なにやら良い匂いがし、その香りが、輸入されているカレー粉と同じであることに気づきました。匂いのする柳行李をあけてみるとウコンや唐辛子といった香辛料が入っおり、これをきっかけに自らカレー粉の開発に取り組み、明治38年に国産初のカレー粉を完成、「蜂カレー」と名付け販売を開始しました。
大勢の従業員が住み込みで働く大店が多かった大阪では、毎日のご飯を炊くのは一日に1回、夕食のときだけ。翌日の朝食、昼食は前夜の残りの冷たいご飯を食べるのが日常でした。そこに熱々のカレーをかければ、冷たいご飯もおいしく食べられる。しかもハイカラな洋食で!ということで、カレーの人気は日ごと高まっていったのです。
その後「蜂カレー」は昭和43年に会社名を「ハチ食品株式会社」と改名し、令和になった今も多彩なカレーを開発・販売しています。
そんななか、大阪で薬問屋を営んでいた今村弥兵衛は、漢方薬をしまってある蔵に入ったところ、なにやら良い匂いがし、その香りが、輸入されているカレー粉と同じであることに気づきました。匂いのする柳行李をあけてみるとウコンや唐辛子といった香辛料が入っおり、これをきっかけに自らカレー粉の開発に取り組み、明治38年に国産初のカレー粉を完成、「蜂カレー」と名付け販売を開始しました。
大勢の従業員が住み込みで働く大店が多かった大阪では、毎日のご飯を炊くのは一日に1回、夕食のときだけ。翌日の朝食、昼食は前夜の残りの冷たいご飯を食べるのが日常でした。そこに熱々のカレーをかければ、冷たいご飯もおいしく食べられる。しかもハイカラな洋食で!ということで、カレーの人気は日ごと高まっていったのです。
その後「蜂カレー」は昭和43年に会社名を「ハチ食品株式会社」と改名し、令和になった今も多彩なカレーを開発・販売しています。
各地で花開く個性的なカレー文化
国産カレー粉はその後、各社が相次いで開発・販売に取り組み活況となりカレーの普及を推進するもう1つの力となりました。夏目漱石も『三四郎』(明治41年刊)の中で、「僕はいつかの人に淀見軒でカレーライスをごちそうになった……」とカレーを取り上げています。それだけ普及が進んだ証といえます。
大正、昭和、平成と、この100年の間にカレーは国民食と称される不動の地位を築いてきました。そして近年は各地域ならではの個性的なカレーも誕生するなど、その食文化はますます多様な拡がりをみせています。ここからは、今を代表する個性的なご当地カレーをご紹介していきましょう。
大正、昭和、平成と、この100年の間にカレーは国民食と称される不動の地位を築いてきました。そして近年は各地域ならではの個性的なカレーも誕生するなど、その食文化はますます多様な拡がりをみせています。ここからは、今を代表する個性的なご当地カレーをご紹介していきましょう。
ご当地カレーの先駆者「札幌スープカレー」
大きな器にたっぷりと注がれたカレー風味の濃厚なスープ。そこに浮かぶのは骨付き鶏肉をはじめ、大ぶりに切ったじゃがいも、にんじん、素揚げしたナスやピーマンです。豪華でダイナミックで、色鮮やか。
従来の茶系統のカレーの世界とは一線を画す世界。元祖スープカレーの店と呼ばれた「アジャンダ」が誕生したのは、1975年(昭和50年)に遡ります。その後、スープカレーという言葉を初めてメニューに掲げた「マジックスパイス」などが次々と開業。
今では、そうした店で修業した第2世代、第3世代が出店し、スープカレーは札幌という文化を定着させ、ご当地名物の代表格にもなっています。
従来の茶系統のカレーの世界とは一線を画す世界。元祖スープカレーの店と呼ばれた「アジャンダ」が誕生したのは、1975年(昭和50年)に遡ります。その後、スープカレーという言葉を初めてメニューに掲げた「マジックスパイス」などが次々と開業。
今では、そうした店で修業した第2世代、第3世代が出店し、スープカレーは札幌という文化を定着させ、ご当地名物の代表格にもなっています。
存在感抜群の個性派「大阪スパイスカレー」
1990年代後半からスパイシーでさらりとしたルウをご飯にかけて食べるという店が誕生し、その輪が拡がっていったのが2000年代後半。「旧ヤム邸」「コロンビア8」「ゴヤラク」など、味だけでなく店名も個性的な店が人気を博しました。
見た目も味もスパイスの香りも、独特でキャッチー!とにかくスパイスの香りと刺激が際立っています。「他人と一緒じゃツマラナイ」という大阪人気質にウケたのか、その勢いは令和になっても衰えは見えません。
従来のカレールウとは一線を画したスタイルは、まったく新たなカレー文化の扉を開いたといえるジャンルで、特にヘルシー志向の女性に高い支持を得ています。
見た目も味もスパイスの香りも、独特でキャッチー!とにかくスパイスの香りと刺激が際立っています。「他人と一緒じゃツマラナイ」という大阪人気質にウケたのか、その勢いは令和になっても衰えは見えません。
従来のカレールウとは一線を画したスタイルは、まったく新たなカレー文化の扉を開いたといえるジャンルで、特にヘルシー志向の女性に高い支持を得ています。
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