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西村氏の右腕・木戸星哲氏がはたした役割
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エナルクにはもうひとり、この物語を語るうえで重要な人物の姿があった。I書房時代と、その後設立する文流で西村暢夫(にしむら のぶお)氏の右腕となる、木戸星哲(きど せいてつ 故人)氏である。
西村氏が木戸氏と出会ったのは、西村氏が東京外国語大学イタリア学科3年のときだった。木戸氏は山形大学経済学部卒業後、神田の書籍輸入会社に就職。東京外国語大学にイタリア語の本を売りにいった際、西村氏と知遇を得た。
西村氏が外語大仲間とはじめたイタリア語の原書を読む会に木戸氏も参加し、持参したタイプライターでイタリア語を打ち込んでいた。木戸氏のイタリア語は大学で学んだものではなく、神田の書籍輸入会社入社後、独学で身につけたようだ。そんな木戸氏をI書房を設立した西村氏が誘ったのだった。
西村氏が木戸氏と出会ったのは、西村氏が東京外国語大学イタリア学科3年のときだった。木戸氏は山形大学経済学部卒業後、神田の書籍輸入会社に就職。東京外国語大学にイタリア語の本を売りにいった際、西村氏と知遇を得た。
西村氏が外語大仲間とはじめたイタリア語の原書を読む会に木戸氏も参加し、持参したタイプライターでイタリア語を打ち込んでいた。木戸氏のイタリア語は大学で学んだものではなく、神田の書籍輸入会社入社後、独学で身につけたようだ。そんな木戸氏をI書房を設立した西村氏が誘ったのだった。
「木戸君と一緒に食事をする機会も多く、木戸君の下宿で料理をご馳走になったこともあります。イタリア料理についての実務は、木戸君に任せようと思っていました」(西村氏)
西村氏に先見の明があったことはたしかである。木戸氏はイタリア人が書いたレシピ本の翻訳を数多く手がけただけでなく、イタリア料理事典などの監訳も担当した。
西村氏に先見の明があったことはたしかである。木戸氏はイタリア人が書いたレシピ本の翻訳を数多く手がけただけでなく、イタリア料理事典などの監訳も担当した。
木戸氏が翻訳・監訳した料理書の数々
タイムマシンで過去へ行き、1980年代から1990年代の書店を覗いたら、イタリア料理書のコーナーには木戸氏が翻訳・監訳した料理書が数多く並んでいるにちがいない。
『婦人公論料理の学校 イタリア版・ヨーロッパの家庭料理』という書籍がある。中央公論社が1980年6月から毎月1冊ずつ刊行した、シリーズ全16巻のレシピ本だ。同書は、ローマの出版社クルチオの「スクオーラ・ディ・クチーナ」全巻を翻訳したものだ。クレジットを見ると“訳/リストランテ文流”となっている。リストランテ文流には翻訳部はなかったはずなので、その母体である文流に属していた木戸氏が翻訳を担当したと思われる。
1巻96ページ。けっして厚い本ではないのだけれど、パスタのソース、手打ちパスタ、リゾットに代表される米料理、肉料理、魚料理、アイスクリーム、果物や野菜の保存方法まで、ほとんどのイタリア料理を網羅している。
『婦人公論料理の学校 イタリア版・ヨーロッパの家庭料理』という書籍がある。中央公論社が1980年6月から毎月1冊ずつ刊行した、シリーズ全16巻のレシピ本だ。同書は、ローマの出版社クルチオの「スクオーラ・ディ・クチーナ」全巻を翻訳したものだ。クレジットを見ると“訳/リストランテ文流”となっている。リストランテ文流には翻訳部はなかったはずなので、その母体である文流に属していた木戸氏が翻訳を担当したと思われる。
1巻96ページ。けっして厚い本ではないのだけれど、パスタのソース、手打ちパスタ、リゾットに代表される米料理、肉料理、魚料理、アイスクリーム、果物や野菜の保存方法まで、ほとんどのイタリア料理を網羅している。
先の全集が家庭料理を題材としていたのに対し、同朋舎出版が1986年に出版した『イタリア・地中海料理百科事典』(全7巻)はプロ向けだった。監修は、ホテルオークラ総料理長の小野正吉(おの まさきち 故人)氏、帝国ホテル総料理長の村上信夫(むらかみ のぶお 故人)氏、プリンスホテル総料理長の木沢武男(きざわ たけお 故人)氏と木戸氏だった。
3名のグランシェフと木戸氏の下に、8名のシェフの名が編集委員として記載されている。ホテルオークラのシェフ剱持恒男(けんもつ つねお 故人)氏、レストラン・キャンティのシェフ森岡輝成(もりおか てるしげ 故人)氏、カピトリーノのオーナーシェフ吉川敏明(よしかわ としあき 現ホスタリア エル・カンピドイオのオーナーシェフ)氏、アルポルトのオーナーシェフ片岡護(かたおか まもる)氏などである。料理制作として69人ものイタリア料理のシェフがかかわった大作だった。
3名のグランシェフと木戸氏の下に、8名のシェフの名が編集委員として記載されている。ホテルオークラのシェフ剱持恒男(けんもつ つねお 故人)氏、レストラン・キャンティのシェフ森岡輝成(もりおか てるしげ 故人)氏、カピトリーノのオーナーシェフ吉川敏明(よしかわ としあき 現ホスタリア エル・カンピドイオのオーナーシェフ)氏、アルポルトのオーナーシェフ片岡護(かたおか まもる)氏などである。料理制作として69人ものイタリア料理のシェフがかかわった大作だった。
リストランテ濱崎のオーナーシェフ 濱崎龍一氏の座右の書
木戸氏が翻訳した本を今も座右の書にしている料理人がいる。「リストランテ濱崎」のオーナーシェフ濱崎龍一(はまさき りゅういち)氏である。
「木戸さんの本が僕の料理のベースになっています」
木戸氏の翻訳本をはじめて手にしたのは22歳のとき。手当たり次第に買いあさった本のなかに『パスタ宝典』が含まれていた。著者はイタリア人ジャーナリスト、ヴィンチェンツォ・ブオナッシージ氏(故人)。翻訳は西村と木戸の両氏が務めた。イタリア全土で食べられてきた1001種類のパスタとそのレシピを紹介しているのだが、料理の手順を説明する写真もイラストも一際な掲載されていない。
「とりあえず買ったけど、文字ばかりでつまらない本だなあって思っていました」
「木戸さんの本が僕の料理のベースになっています」
木戸氏の翻訳本をはじめて手にしたのは22歳のとき。手当たり次第に買いあさった本のなかに『パスタ宝典』が含まれていた。著者はイタリア人ジャーナリスト、ヴィンチェンツォ・ブオナッシージ氏(故人)。翻訳は西村と木戸の両氏が務めた。イタリア全土で食べられてきた1001種類のパスタとそのレシピを紹介しているのだが、料理の手順を説明する写真もイラストも一際な掲載されていない。
「とりあえず買ったけど、文字ばかりでつまらない本だなあって思っていました」
濱崎氏が読みふけった2つの書籍
しばらく書棚に眠っていた『パスタ宝典』を再び手にする機会が訪れた。29歳となった1992年、「リストランテ山崎」のシェフになったのがきっかけだった。濱崎氏は24歳で渡伊し、1年半後に帰国。1989年、日髙良実氏(ひだか よしみ)がシェフに就任した「リストランテ山崎」に入店した。
バブル期、イタリア料理はイタメシと呼ばれはじめた。雑誌『Hanako』が組んだ「ティラミス特集」(1990年4月12日号)も手伝い、日本中がイタメシで盛り上がっていた。
そんな時期、日髙氏が西麻布の「リストランテ アクアパッツァ」(現港区青山)へ移った。その2年後、濱崎氏は「リストランテ山崎」のシェフに就任。若手シェフとして脚光を浴び、取材を受ける機会が多くなった。イタメシブームのなかでイタリアの郷土料理が取り沙汰されるなか、「なぜこの料理を作ったのか?」といった質問をひんぱんに受けた。
「理論武装をしないと取材に答えられないと思い、イタリアで買ったアンナ・ゴゼッティという人が書いたイタリア地方料理の原書を読みはじめました」
ところが、その原書に書かれていることが、『パスタ宝典』にも記述されていた。アンナ・ゴゼッティ氏の本を『パスタ宝典』と照らし合わせながら読むようになった。『パスタ宝典』は、パスタとそのレシピを紹介するだけでなく、要所ごとにイタリアの地理や歴史や料理などに関する注釈が書かれている。
「僕の場合、レシピはあまり重要ではないんです。流れがわかれば自分で解釈して作るから。それよりも注釈がイタリア料理の地域性を知るうえでとても勉強になった」
『パスタ宝典』と同じくブオナッシージ氏が書き、西村氏と木戸氏が翻訳した『イタリア・ソース宝典』(読売新聞社 1985年)という書籍がある。イタリアに伝わる古典的なソースの説明が書かれた同書を、濱崎シェフはいまでも活用している。
バブル期、イタリア料理はイタメシと呼ばれはじめた。雑誌『Hanako』が組んだ「ティラミス特集」(1990年4月12日号)も手伝い、日本中がイタメシで盛り上がっていた。
そんな時期、日髙氏が西麻布の「リストランテ アクアパッツァ」(現港区青山)へ移った。その2年後、濱崎氏は「リストランテ山崎」のシェフに就任。若手シェフとして脚光を浴び、取材を受ける機会が多くなった。イタメシブームのなかでイタリアの郷土料理が取り沙汰されるなか、「なぜこの料理を作ったのか?」といった質問をひんぱんに受けた。
「理論武装をしないと取材に答えられないと思い、イタリアで買ったアンナ・ゴゼッティという人が書いたイタリア地方料理の原書を読みはじめました」
ところが、その原書に書かれていることが、『パスタ宝典』にも記述されていた。アンナ・ゴゼッティ氏の本を『パスタ宝典』と照らし合わせながら読むようになった。『パスタ宝典』は、パスタとそのレシピを紹介するだけでなく、要所ごとにイタリアの地理や歴史や料理などに関する注釈が書かれている。
「僕の場合、レシピはあまり重要ではないんです。流れがわかれば自分で解釈して作るから。それよりも注釈がイタリア料理の地域性を知るうえでとても勉強になった」
『パスタ宝典』と同じくブオナッシージ氏が書き、西村氏と木戸氏が翻訳した『イタリア・ソース宝典』(読売新聞社 1985年)という書籍がある。イタリアに伝わる古典的なソースの説明が書かれた同書を、濱崎シェフはいまでも活用している。
日本のイタリア料理界に多大な影響を与えたブオナッシージ氏
ブオナッシージ氏は、1989年に『新パスタ宝典』(読売新聞社 訳西村暢夫 )と『イタリア人のイタリア料理』(専門料理 訳木戸星哲 )を上梓。同年秋、その出版記念パーティーに出席するため来日したブオナッシージ氏を、雑誌『週刊読売』が「ミスター・スパゲッティ」の名で紹介した。東京湾に浮かぶ屋形船で揚げたてのテンプラにご満悦のミスター・スパゲッティをグラビアで掲載している。
有名人になりつつあったブオナッシージ氏を雑誌『BRUTUS』がたびたび紹介していた。そして1997年、同編集部がブオナッシージ氏を日本に招へい。同誌3月15日号の特集「日本のパスタは、本物なのか!?」ではブオナッシージ氏を「パスタ王」として掲載した。
ブオナッシージ氏は東京と関西で人気のイタリア料理店でパスタを1週間食べ歩いた。パスタ王は具材が大きかったり、野菜の種類が多かったりするパスタを良しとしなかった。絶賛したパスタもあったが、パスタ王のお眼鏡にかなわないものはシェフのスペシャリテだろうと容赦なく酷評した。
ブオナッシージ氏を日本に紹介する契機をつくったのが『パスタ宝典』の出版であり、翻訳した西村氏と木戸氏の功績だったといえるだろう。
有名人になりつつあったブオナッシージ氏を雑誌『BRUTUS』がたびたび紹介していた。そして1997年、同編集部がブオナッシージ氏を日本に招へい。同誌3月15日号の特集「日本のパスタは、本物なのか!?」ではブオナッシージ氏を「パスタ王」として掲載した。
ブオナッシージ氏は東京と関西で人気のイタリア料理店でパスタを1週間食べ歩いた。パスタ王は具材が大きかったり、野菜の種類が多かったりするパスタを良しとしなかった。絶賛したパスタもあったが、パスタ王のお眼鏡にかなわないものはシェフのスペシャリテだろうと容赦なく酷評した。
ブオナッシージ氏を日本に紹介する契機をつくったのが『パスタ宝典』の出版であり、翻訳した西村氏と木戸氏の功績だったといえるだろう。
コラム『イタリアの食文化』
取材中、西村暢夫氏から、イタリア各地で見聞した食文化に関する、珠玉の短編のような逸話をきかせてもらった。その内容を不定期で紹介するコラムの第4回。
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