ライター : 中島茂信

期間はほぼ1ヶ月。ホテルに缶詰でイタリア料理を学ぶ旅

昭和43年頃の東京国際空港が写った特別送迎待合室の入場券
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3月2日(日)の12時20分。JL451便が東京国際空港を飛び立っていった。東京国際空港といってもビッグバードの愛称で親しまれている現代の羽田空港ではない。大阪万国博覧会が開催される前年の、1969(昭和44)年の東京国際空港である。JL451便ダグラスDC-8は香港、バンコク、カルカッタ、カラチ、カイロを経由し、朝6時過ぎにローマのダ・ヴィンチ空港に到着。飛行時間約16時間の長旅だった。

このツアーを企画したのは、I書房の西村暢夫(にしむら・のぶお)氏だった。観光旅行ではない。ほぼ1ヶ月間ローマ郊外にあるエナルクホテルに缶詰となり、イタリア人シェフから料理を習う、イタリア料理講習会を開催したのだ。

講習会の舞台となったエナルクとは

エナルクホテル厨房での講習会風景/出典『イタリア料理の旅』
「エナルクは、ホテルを併設したイタリア国立料理学院です。ファシズムの時代、イタリア人が他国に移民するにあたり、手に職をつけておくべきだと考えたベニート・ムッソリーニ(故人)が設立しました」(西村氏)

コック、ハウスボーイ、メイド、マネージャー、ホールサービスなど、ホテル運営に必要な職務に携わる人材を養成する学校だった。その分校のひとつがローマにあったエナルクで、ここでの料理講習会を西村氏が企画し、実施したのである。参加者は総勢約45名。

地中海に面して建つローマのエナルクは、敷地面積3万坪。すべての客室に地中海をのぞむバルコニーがあるほか、野外プールやテニスコート、室内ジム、美容室などの施設が整った、当時の日本人にはなじみのなかったリゾートホテルだった。

書物が伝える料理講習会の様子

エナルクホテルの厨房の断面図/出典『イタリア料理の旅』
『イタリア料理の旅』という書物がある。エナルクの講習会に参加した料理学校教師の源川朝子氏と栄養研究家の東愛子氏がつづった滞在記だ。同書によれば、参加者はダ・ヴィンチ空港からホテルの送迎バスに乗り込み、エナルクホテルへむかった。「ローマに着いた当日の夕食からスケジュールにぎっしり」と講習会が組まれていた。食べ歩きや観光に出かけた6日間以外は、「献立にのせられた料理はすべて『実習の献立』として組まれていた」という。

エナルクホテルのキッチンの広さは150坪。「特に珍しい調理器具といったものはない」が、大理石の床にレンジやオーブンが置かれていた。レンジの熱源はコークスで「常に白く見える程強力な火力を保っていた」。

参加者の大半がアルデンテのパスタを「生ゆでだ」と酷評

参加者は一日1回パスタを食べた。キッチンにはパスタマシンがあったので、手打ちパスタも食べていたかもしれない。そのパスタをキッチンの隅にあった圧力釜でゆでた。『イタリア料理の旅』には、「蓋をして圧力をかけるとまたたく間にゆで上がってしまう」と記されている。

講習会参加者がエナルクではじめてパスタを食べたときにもらした言葉が、今もはっきリト西村氏の脳裏に刻まれている。

「参加者の大半が、『生ゆでだ、これはスパゲッティじゃない』と批判しました」

エナルクの料理人がアルデンテにゆでたパスタを、日本人参加者は「生ゆでだ」と感じたというのだ。
イタリア人が好むアルデンテのパスタに不快感をいだいたのは、日本人だけではなかった。17世紀のイタリアでパスタと出会ったフランス人たちも「なにしろパスタが生ゆでである」と酷評したという逸話が、『旅人たちの食卓』(フィリップ・ジレ著、宇田川悟訳)に紹介されている。「パスタをおいしいと思うには慣れが必要である」と述べたフランス人がいたというのである。

前回書いたように、うどんのようなパスタを食べなれてきた日本人からすれば、アルデンテのパスタなど論外だったにちがいない。

次回につづく

コラム『イタリアの食文化』

取材中、西村暢夫氏から、イタリア各地で見聞した食文化に関する、珠玉の短編のような逸話をきかせてもらった。その内容を不定期で紹介するコラムの第3回。

Photo by photoAC

ヴェネツィアのサン・マルコ広場(イメージ画像)

un'ombra(ウノンブラ)/ヴェネツィア

41歳だった1975(昭和50)年、日本語の講師としてヴェネツィア大学に赴任しました。給料を振り込んでもらうためにヴェネツィアの銀行に口座を作った際、ダニエーレ君という若い銀行員にお世話なりました。何度も通ううちに、彼が私と話をしてくれるようになったのは、単身赴任だった私が淋しげだったからかもしれません。

ある日、ダニエーレ君が立ち飲み屋にさそってくれました。銀行員が顧客を飲み屋にさそうのは、イタリアでも珍しいことだと思います。後年、私はシエナでイタリア料理学院を経営し、十数年間シエナの銀行と密接なお付き合いをさせてもらいましたが、銀行員と飲みに行ったことは一度もありません。もちろん、日本でもありません。

ダニエーレ君は、ヴェネツィアの対岸にあるメストレという町に奥さんとふたりでくらしていました。ある日の夕方、「一杯やりませんか」とダニエーレ君がさそってくれたのです。私はヴェネツィアのアパートでひとりぐらしをしていたので、お誘いは大歓迎でした。

立ち寄った店は「Vini(ワイン)」の看板がかかった、ワインとつまみが何種類かあるだけの素っ気ない立ち飲み屋でした。
ダニエーレ君は、「un'ombra(ウノンブラ)」といってワインをふたり分注文しました。あとでわかったことですが、ふだんはカウンターの前に立てば、何もいわなくてもワインが出てきます。わざわざ声をかけてワインを注文したのは、私にヴェネツィア流の注文の仕方を教えるためでした。unoは「ひとつ」、ombraは「影」という意味。つまり、un'ombraで「影をひとつ」という意味になります。

なぜ「影」なのか。ダニエーレ君によれば、昔サン・マルコ広場のカンパニーレ(鐘楼)の影がさす場所に飲み屋が群がるようにでき、そこへ飲みにいくことを「影をひとつ」というようになったそうです。そこから、ワインを一杯頼むことを「ウノンブラ」というようになったと、ダニエーレ君に教えてもらいました。

「一杯ちょうだい」というよりも、「影をひとつ」のほうが、情緒があっていいなあと思っています。

イタリアはあちこちいきましたが、当時簡素な飲み屋があったのはヴェネツィアだけでした。ヴェネツィア人は、そのようなヴェネツィアの食文化を大切にしていました。
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