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店を切り盛りするのは、松阪出身の店主・長谷川英祐さん(40)。沖縄で7年間、地元に根付いた居酒屋文化の中で修行を重ね、その経験を携えて故郷に戻った。ゴーヤチャンプルーやソーキ焼きといった沖縄料理に、地元の魚を組み合わせるスタイルは、松阪の飲食シーンの中でも異彩を放っている。
一方で、長谷川さんのこれまでの歩みは、最初から料理の道にあったわけではなく、原点はまったく異なる現場にある。その選択の積み重ねが、満天やという店の輪郭を形づくってきた。今回はそんな長谷川さんと満天やの道のりを振り返っていこう。
福祉から料理へー予想外のキャリアチェンジ
沖縄への移住に、明確な計画があったわけではない。背中を押したのは、「行ってみよう」という単純な好奇心だった。現地で仕事を探すために開いたタウンワークで、居酒屋の求人が目に入った。介護の経験を活かす道も頭をよぎったが、最終的に選んだのは、まったくの未経験だった料理の世界への挑戦だった。
学生時代から家で料理をすることは好きだった。ただ、プロの調理場は別物だった。想像以上の仕込み量、長時間に及ぶ下準備、そして一つひとつの作業に求められる正確さ。最初は戸惑いを隠せなかったという。それでも、地元に根づいた沖縄の居酒屋で働くうちに、現場の流れや調理の基本が少しずつ身についていく。気づけば、その経験が料理人としての土台になり始めていた。
沖縄の居酒屋文化ー時間を忘れる島の夜
沖縄では、酒を飲む時間の感覚がまるで違う。沖縄では飲み放題も、3時間が当たり前。それだけではない。朝5時まで営業する居酒屋も珍しくなく、繁華街では朝9時閉店の店も存在する。夜の仕事を終えたスナックやバーの従業員が朝7時に集まり、店が満席になる光景も特別なものではなかったそうだ。代行サービスが朝7時まで稼働しているのも、この土地ならではの事情だろう。
客は3時間、4時間と腰を据え、泡盛をゆっくりと傾ける。それでも、泥酔する人は意外なほど少ない。飲み慣れているからこそ、自分のペースを崩さず、静かに店を後にするのだ。こうした体験は、後の店づくりに少なからず影響を与えた。料理の味だけで勝負するのではなく、人が自然と長く居られる空間を整えること。その大切さを、沖縄の夜から学び取っていた。
地元松阪で沖縄料理店を選んだ理由
29歳で松阪に戻った長谷川氏は、すぐに独立する道を選ばなかった。修行先に選んだのは、老舗料理店「八千代」である。3年間にわたり、本格的な魚料理を基礎から学んだ。沖縄では扱う機会のなかった様々な魚をこの店で初めてさばいたという。この経験が、後に満天やで地元の魚を扱う礎となる。
32歳で創業した満天やは、とても小さな店舗から始まった。7.5坪、11席という限られた空間は、沖縄で体感した地元密着型居酒屋の延長線上にあった。友人が友人を連れて訪れ、常連が待ち合わせに使い、飲み屋街である愛宕町で飲んだ後に立ち寄って語らう。人の流れと会話が自然に生まれる空気が、店の輪郭を形づくっていった。
コロナ禍での決断ー逆境を好機に変える
政府からの給付金を活用し、より広い現在の店舗への移転を決めたのだ。2020年10月に物件を借り、12月にオープン。まさにコロナ禍の真っ只中での勝負だった。
移転は予想以上の効果をもたらした。道路に面した立地により、新規客が大幅に増加したのだ。以前の店舗は知る人ぞ知る隠れ家的な場所だったが、新店舗は通りがかりの人の目に留まりやすい。表通りに出たことの効果は、想像以上に大きかった。
料理へのこだわりー沖縄と三重の融合
魚は地元の市場や魚屋から仕入れ、その日の入荷状況に応じて日替わりで提供している。時期によっては浦村の牡蠣や答志島のワカメなど、三重県の海の幸が並ぶ。沖縄料理店でありながら、地元食材を大切にする姿勢こそが、満天やの独自性を形づくっている。
季節ごとの食材の変化も、メニュー構成に影響を与える。3月中旬からは島らっきょうが旬を迎え、常連客が待ちわびる一品となる。海ぶどうは冷えに弱いため、暖かい季節限定だ。
地域の絆をつなぐ
客層は常連客が7割、新規客が3割程度。常連客の多くは、沖縄の居酒屋ほど長時間は滞在しないものの、それでも松阪の他の居酒屋より長く過ごす傾向がある。9時頃になると愛宕町へ繰り出す客も多い。道路を渡るだけという立地の良さも、この流れを生み出している。
笑顔と元気を売る店
この思いは、沖縄での経験と福祉業界での経験の両方から生まれている。老人ホームで人と向き合い、沖縄の居酒屋で人々が笑顔で過ごす姿を見てきた長谷川氏にとって、飲食店は人々が日常の疲れを癒し、明日への活力を得る場所なのだ。
ワクワクを追い続ける
飲食業は決して楽な仕事ではない。それでも続けられるのは、ワクワクする気持ちがあるからだ。新しいメニューを考える楽しさ、客の笑顔を見る喜び、地域とのつながりを感じる充実感。これらが、彼を前に進ませる原動力となっている。
地元で咲く沖縄の花
沖縄の居酒屋文化と三重の食材、地元への愛着と新しい挑戦への意欲、伝統的な料理と創意工夫。これらの要素が融合したこの店は、単なる沖縄料理店ではなく、長谷川さんの人生そのものを体現した空間だ。
カウンターに座り、ゴーヤチャンプルーをつまみながら泡盛を傾ける。隣の客と言葉を交わし、笑顔になる。そんな何気ない時間の中に真価がある。松阪の街角で、沖縄の風を感じながら、人々は明日への活力を得る。満天やは今日も、笑顔と元気を提供し続けている。