ライター : shucyan

フードアナリスト / 江戸ソバリエ / ソルトマイスター

お箸じゃなくてねぎで食べるそば?

日本各地にはさまざまなおそばがありますが、その食べ方としてお箸の代わりにねぎを使うという大内宿の「ねぎそば」が奇想天外で話題になっています。いつ頃から何の理由でこんな食べ方が根付いたのでしょうか?

その理由と歴史を解き明かしながら、ねぎそばが食べられるお店を10軒ご紹介します。

まず、大内宿ってどんな場所?

江戸時代、大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道(下野街道)と呼ばれる街道の宿場町でした。そのため、会津西街道は会津藩や新発田藩、村上藩、米沢藩の参勤交代として用いられた交通の要所でした。大内宿は宿場町として本陣や旅籠、問屋などが設けられ、山に囲まれながらも大いに賑わいました。 近代化で少しずつ当時の様子がなくなりつつありましたが、宿場宿の保存運動に力が入るようになった結果、昭和56年(1981年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。

そんな大内宿の「ねぎそば」が話題に!

一般的には輪切りに刻んで薬味とされるネギをお箸代わりにそばをたぐって、それをかじりながら食べるという奇想天外な郷土食です。しかもつゆには醤油や出汁は用いず、辛味大根の絞り汁だけなんです。これは、信州の高遠そばの伝統を踏んでいるようです。

ねぎそばの由来

※「ねぎそば」の蕎麦を伸ばしている様子です

高遠そばと垂れ味噌

江戸時代初期、そばがようやくそば切りとして食べられはじめた頃に、保科正之公が信州伊那の高遠から出羽を経て会津に移りました。そば処として知られる信州高遠のそば文化がそのまま会津に伝えられたんですね。実は会津も重要な、そば産地のひとつなんです。 伝統的な江戸そばは、出汁と醤油のつゆで食べるのが一般的ですが、大根おろしの辛味+こんがり焼き味噌の風味で食べるのが古来の高遠そばの食べ方です。江戸でも醤油が庶民に普及する江戸時代中期以前は、醤油でなく垂れ味噌で食べられていました。

ねぎそば誕生の経緯

会津のそばは、昔は祝いの席や徳川将軍への献上品だったため「切る」というのは縁起が悪いとされ、ねぎを切らずにそのまま使ったのが始まりだと言われています。 その一方で大内宿の「ねぎそば」は、地元の『三澤屋』が30年ほど前に始めたメニューだそうです。「小さいお椀にねぎを挿して子孫繁栄を願う風習がある」という話をお客から聞いて発想を得たそうです。 会津のそばのルーツは高遠そば。辛味大根に類似する生ねぎの辛味が共通した味わいだったと思われます。
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