1000年の歴史をもつ「瀬戸焼」の特徴

※画像はイメージです
瀬戸焼は、「せともの」を担う世界屈指の産地、愛知県瀬戸市周辺で作られている陶磁器の総称です。瀬戸の地域でやきもの作りが始まったのは鎌倉時代。やきものの原料になる良質な粘土(木節粘土・蛙目粘土)を採取することができ、環境に恵まれていたのです。

約1000年もの間、一度も途切れずにやきもの生産を続けてきた瀬戸市。日本の陶磁器窯には中世から現在までの長い期間、生産が継続している代表的な窯が6か所あります。総じて「日本六古窯(にほんろっこよう)」と呼びますが、瀬戸焼を生産する瀬戸市もそのひとつとされ、世界的にも稀少な産地として知られているのです。

古来、人々は陶器を作る地域を「陶所(すえと)」と呼んでいました。陶所という言葉が転じて「瀬戸」の地名になったというユニークな説もあります。また瀬戸焼の手法は、陶器の種類では日本ではじめて釉薬(ゆうやく:うわぐすり)を施して焼かれた陶器として有名です。

時代とともに変化する瀬戸焼の歴史

瀬戸焼は古墳時代が起源

瀬戸焼は、古墳時代後期から鎌倉時代初期にかけて現在の愛知県名古屋市域で稼働していた「猿投窯(さなげよう:陶磁器を焼くために用いられた窯の遺構、古窯跡)」の流れをくんでいる陶磁器です。

起源は、この地域で5世紀前半に須恵器(すえき)が生産されたことからはじまります 。その後、古代から中世にかけて、名古屋市東部の約20km四方にわたり 1,000基をこえる数多くの瀬戸焼の窯がつくられました。この窯跡が猿投窯です。正式名称を「猿投山西南麓古窯跡群(さなげやませいなんろくこようせきぐん)」といいます。

瀬戸焼の生産のはじまりは、藁(わら)などの植物の灰を原料にして釉薬をかけて仕上げる灰釉陶器(かいゆうとうき)からといわれています。

古瀬戸以降(室町時代中期~)の瀬戸焼

鎌倉時代からの釉薬を施した瀬戸焼(古瀬戸)は、当時の庶民には縁遠い高級品でした。しかし室町時代中期から生産地が岐阜県美濃地域に移ると、従来の穴窯から大窯へと生産方法が変わります。椀・小皿類、調理具などの日常的に使う製品が中心となり、瀬戸焼の大量生産が始まりました。

室町時代までに作られたものを「古瀬戸」と呼びます。その頃に陶磁器の生産拠点が岐阜県の美濃地方に移ったことから、美濃焼も瀬戸焼の流れをくむ陶器として知られているのです。

江戸時代になると、さらに伝統的な陶磁器の生産は減少していき、御室茶碗や腰錆茶碗などが登場。各村で器種別の分業化をし、日用品が量産されていきました。

現代の瀬戸焼

江戸時代後期から磁器生産がスタートします。すると、これまで主流だった陶器は「本業焼」、新たに導入した磁器は「染付焼」または「新製焼」と呼ばれるようになりました。

明治時代になると瀬戸窯業の基盤となる動力機械の導入により、インフラが整ってきます。ロクロは機械でおこない、模様は手書きではなく転写に。窯は石炭や重油を使用したものになりました。

このような時代の変化により、瀬戸焼の陶磁器は大量生産できるようになったのです。瀬戸焼の陶磁器はお皿やマグカップなどの食器を思い浮かべがち。しかし、洗面台、便器、浴槽なども生産されていますよ。

「瀬戸物」は瀬戸焼が由来

私たちは、陶器を指す言葉を「せともの」と呼ぶのが一般化しています。しかし「瀬戸物(せともの)」は、もともと愛知県瀬戸市で1000年以上前から瀬戸焼の生産を続けてきて、瀬戸の地域で生産された焼き物、つまり瀬戸焼を指す言葉なのです。

瀬戸焼の新ブランド「瀬戸織部」の特徴

瀬戸焼の新ブランド「瀬戸織部」があります。「織部焼」(おりべやき)は、もともと岐阜県で焼かれていた陶器です。瀬戸織部は瀬戸で焼かれた織部焼のことを指します。

「織部焼」の由来は桃山文化を彩った茶人、「古田織部」(ふるたおりべ)の名前に因んだもの。

古田織部は、千利休(せんのりきゅう)の弟子で、当時のファッションリーダー的存在でした。織部は、お茶の世界で自由な形や大胆な模様、明るい色彩をもつ「斬新なやきもの」の茶碗を好んで使っていました。そこから、大胆で斬新という個性的なデザインの瀬戸焼を瀬戸織部と呼ぶようになったのです。
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